また諸大菩薩・天人(てんにん)等のごときは爾前の経々にして記莂(きべつ)をうるやうなれども、水中の月を取らんとするがごとく、影を体(たい)とおもうがごとく、いろかたちのみあて実義(じつぎ)もなし。また仏の御恩も深くて深からず。
世尊初成道(しよじようどう)の時はいまだ説教もなかりしに、法慧(ほうえ)菩薩・功徳林(くどくりん)菩薩・金剛幢(こんごうどう)菩薩・金剛蔵菩薩等(とう)なんど申せし六十余の大菩薩。十方(じつぽう)の諸仏の国土より教主釈尊の御前(みまえ)に来(きた)り給いて、賢首(げんじゆ)菩薩・解脱月(げだつがつ)等の菩薩の請(こい)にをもむいて十住(じゆうじゆう)・十行(じゆうぎよう)・十回向(じゆうえこう)・十地(じゆうじ)等の法門を説き給いき。
これらの大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず。十方世界の諸の梵天(ぼんてん)等も来(きたつ)て法をとく。また釈尊にならいたてまつらず。
総じて華厳会座(えざ)の大菩薩・天竜等は釈尊已前に不思議解脱(ふしぎげだつ)に住せる大菩薩なり。釈尊の過去因位の御弟子にやあるらん。十方世界の先仏(せんぶつ)の御弟子にやあるらん。一代教主始成正覚(しじようしようがく)の仏の弟子にはあらず。
阿含・方等・般若の時、四教(しきよう)を仏の説き給いし時こそやうやく(漸)御弟子は出来(しゆつらい)して候(そうら)へ。これもまた仏の自説なれども正説(しようせつ)にはあらず。
ゆへいかんとなれば、方等・般若の別円(べつえん)二教は華厳経の別円二教の義趣(ぎしゆ)をいでず。彼(か)の別円二教は教主釈尊の別円二教にはあらず。法慧等の大菩薩の別円二教なり。これらの大菩薩は人目には仏の御弟子かとは見ゆれども、仏の御師(おんし)ともいゐぬべし。世尊彼の菩薩の所説を聴聞して智発(ちはつ)して後、重(かさね)て方等・般若の別円をとけり。色もかわらぬ華厳経の別円二教なり。
さればこれらの大菩薩は釈尊の師なり。華厳経にこれらの菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり。善知識と申すは一向(いつこう)師にもあらず、一向弟子にもあらずある事なり。蔵通(ぞうつう)二教はまた別円の枝流(しりゆう)なり。別円二教をしる人必ず蔵通二教をしるべし。
人の師と申すは弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候(そうろう)なり。
例せば仏より前の一切の人天(にんでん)・外道は二天・三仙の弟子なり。九十五種まで流派(りゆうは)したりしかども三仙の見(けん)を出でず。
教主釈尊もかれに習い伝(つたえ)て、外道の弟子にてましませしが、苦行楽行(くぎようらくぎよう)十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出でてこそ、外道の弟子の名をば離れさせ給いて、無師智(むしち)とはなのらせ給いしか。また人天も大師とは仰(あお)ぎまいらせしか。されば前四味の間は教主釈尊、法慧(ほうえ)菩薩等の御弟子なり。例せば文殊は釈尊九代の御師(おんし)と申すがごとし。つねは諸経に「不説一字(ふせついちじ)」ととかせ給うもこれなり。
仏御年(ほとけおんとし)七十二の年、摩竭提国(まがだこく)霊鷲山(りようじゆせん)と申す山にして無量義経をとかせ給いしに、四十余年の経々をあげて枝葉をばその中におさめて、「四十余年未顕真実」と打ち消し給うはこれなり。
この時こそ諸大菩薩・諸天人等はあはてて実義を請(しよう)せんとは申せしか。無量義経にて実義とをぼしき事一言(いちごん)ありしかども、いまだまことなし。たとへば月の出(いで)んとしてその体東山(かたちとうざん)にかくれて、光り西山(せいざん)に及べども、諸人月体(しよにんつきしろ)を見ざるがごとし。
法華経方便品(ほうべんぼん)の略開三顕一の時、仏(ほとけ)略して一念三千心中(しんちゆう)の本懐(ほんがい)を宣(の)べ給う。始(はじめ)の事なれば、ほととぎすの音(こえ)をねをびれたる者の一音(ひとこえ)きゝたるがやうに、月の山の半(なかば)を出(い)でたれども薄雲(はくうん)のをほへるがごとくかそかなりしを、舎利弗等驚(おどろき)て諸天竜神・大菩薩等をもよをして、「諸(もろもろ)の天竜神等その数恒沙(こうじや)のごとし、仏を求むる諸の菩薩大数(だいしゆ)八万あり。また諸の万億国(まんのくこく)の転輪聖王(てんりんじようおう)の至れる、合掌して敬心(きようしん)を以て具足の道(どう)を聞きたてまつらんと欲す」等とは請(しよう)せしなり。文(もん)の心は四味三教(さんぎよう)、四十余年の間いまだきかざる法門うけ給はらんと請せしなり。
この文に「欲聞具足道(よくもんぐそくどう)」と申すは、大経(だいきよう)に云く「薩(さ)とは具足の義に名づく」等云云。
無依無得大乗四論玄義記(むえむとくだいじようしろんげんぎき)に云く「沙(さ)とは決(けつ)して六と云う。胡法(こほう)には六を以て具足の義となすなり」等云云。
吉蔵(きちぞう)の疏(しよ)に云く「沙(さ)とは翻(ほん)じて具足(ぐそく)となす」等云云。
天台の玄義の八に云く「薩(さ)とは梵語、ここに妙と翻ず」等云云。
付法蔵の第十三真言華厳諸宗の元祖(がんそ)、本地(ほんじ)は法雲自在王如来、迹(しやく)に竜猛(りゆうみよう)菩薩、初地(しよじ)の大聖(だいしよう)の大智度論千巻の肝心に云く「薩(さ)とは六也」等云云。
妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支(がつし)には薩達磨分陀利迦蘇多攬(さつだるまふんだりきやそたらん)と申す。
善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く、「曩謨三曼陀(のうまくさんまだ)〈普仏陀〉唵(おん)〈三身如来〉阿阿暗悪(ああーあんあく)〈開示悟入〉薩縛勃陀枳攘(さるばぼだきのう)〈知〉娑乞蒭毗耶(さきしゆびや)〈見〉誐誐曩婆縛(ぎやぎやのうばば)〈如虚空性〉羅乞叉儞(あらきしやに)〈離塵相なり〉薩哩達磨(さつりだるま)〈正法なり〉浮陀哩迦(ふんだりきや)〈白蓮華〉蘇駄覧(そたらん)〈経〉惹(じやく)〈入〉吽(うん)〈遍〉鑁(ばん)〈作〉発(こく)〈歓喜〉縛曰羅(ばざら)〈堅固〉羅乞叉鋡>(あらきしやまん)〈擁護〉吽(うん)〈空無相無願〉娑婆訶(そはか)〈決定成就〉。」この真言は南天竺(なんてんじく)の鉄塔の中(うち)の法華経の肝心の真言なり。
この真言の中に薩哩達磨(さつりだるま)と申すは正法(しようぼう)なり。薩(さ)と申すは正(しよう)なり。正は妙(みよう)なり。妙は正なり。正法華(しようほつけ)・妙法華これなり。また妙法蓮華経の上に南無(なむ)の二字をけり。南無妙法蓮華経これなり。
妙とは具足。六とは六度万行。諸の菩薩の六度万行を具足するやうをきかんとをもう。具とは十界互具。足(そく)と申すは一界に十界あれば当位(とうい)に余界(よかい)あり。満足(まんぞく)の義なり。
この経一部・八巻・二十八品・六万九千三百八十四字、一々にみな妙の一字を備(そな)えて、三十二相(そう)八十種好(しゆごう)の仏陀なり。十界にみな己界(こかい)の仏界(ぶつかい)を顕(あらわ)す。妙楽云く「なお仏果を具す、余果もまたしかり」等云云。
仏これを答(こたえ)て云く「衆生をして仏知見(ぶつちけん)を開かしめんと欲す」等云云。
衆生と申すは舎利弗、衆生と申すは一闡提、衆生と申すは九法界(くほうかい)。衆生無辺誓願度ここに満足す。「我本(われもと)誓願を立つ。一切の衆(しゆ)をして我がごとく等しくして異なること無からしめんと欲す。我が昔の願せしところのごとき、今は已(すで)に満足しぬ」等云云。諸大菩薩諸天等この法門をきひて領解(りようげ)して云く「我等(われら)昔より来(このかた)、数(しばしば)世尊の説を聞けどもいまだ曾(かつ)てかくのごとき深妙(じんみよう)の上法(じようほう)を聞かず」等云云。
伝教大師云く「我等昔より来(このかた)、数(しばしば)世尊の説を聞くとは、昔、法華経の前に華厳等の大法を説くを聞けるを謂うなり。いまだ曾てかくのごとき深妙の上法を聞かずとは、法華経の唯一仏乗(ゆいいちぶつじよう)の教えをいまだ聞かずと謂うなり」等云云。
華厳・方等・般若・深密(じんみつ)・大日等の恒河沙の諸大乗経は、いまだ一代の肝心たる一念三千の大綱骨髄たる二乗作仏・久遠実成等をいまだきかずと領解(りようげ)せり。