開目抄(かいもくしょう)

また今よりこそ諸大菩薩も梵・帝・日月(にちがつ)・四天等も教主釈尊の御弟子にては候(そうら)へ。されば宝塔品には、これらの大菩薩を仏(ほとけ)我が御弟子等とをぼすゆへに諫暁(かんぎよう)して云く「諸の大衆(だいしゆ)に告ぐ、我が滅度の後、誰か能くこの経を護持し読誦(どくじゆ)する。今仏前(ぶつぜん)において自ら誓言(せいごん)を説け」とは、したたかに仰(おお)せ下(くだ)せしか。また諸大菩薩も「譬えば大風(たいふう)の小樹(しようじゆ)の枝を吹くがごとし」等と、吉祥草(きつしようそう)の大風に随(したが)い、河水の大海(たいかい)へ引くがごとく、仏には随いまいらせしか。
しかれども霊山(りようぜん)日浅くして夢のごとく、うつゝならずありしに、証前(しようぜん)の宝塔の上に起後(きご)の宝塔あて、十方の諸仏来集(らいしゆう)せる、みな我が分身(ふんじん)なりとなのらせ給い、宝塔は虚空に、釈迦・多宝坐を並べ、日月の青天に並出(びようしゆつ)せるがごとし。人天大会(にんでんだいえ)は星をつらね、分身の諸仏は大地の上、宝樹(ほうじゆ)の下(もと)の師子のゆかにまします。

華厳経の蓮華蔵世界は、十方・此土(しど)の報仏、各々(おのおの)に国々にして、彼界(かのかい)の仏、この土(ど)に来(きたり)て分身(ふんじん)となのらず。この界(かい)の仏、彼(か)の界へゆかず。ただ法慧(ほうえ)等の大菩薩のみ互いに来会(らいえ)せり。
大日経・金剛頂経等の八葉九尊(はちようくそん)三十七尊等、大日如来の化身(けしん)とわみゆれども、その化身、三身(さんじん)円満の古仏(こぶつ)にあらず。
大品経(だいぼんきよう)の千仏・阿弥陀経の六方の諸仏、いまだ来集(らいしゆう)の仏にあらず。
大集経(だいじつきよう)の来集の仏、また分身ならず。
金光明経の四方の四仏は化身なり。
総(そうじ)て一切経の中に各修各行(かくしゆかくぎよう)の三身円満の諸仏を集めて、我(わが)分身とわとかれず。

これ寿量品の遠序(おんじよ)なり。始成(しじよう)四十余年の釈尊、一劫十劫(いつこうじつこう)等已前の諸仏を集めて分身(ふんじん)ととかる。さすが平等意趣にもにず、をびただしくをどろかし。また始成の仏ならば所化(しよけ)十方に充満すべからざれば、分身の徳は備わりたりとも示現してゑきなし。
天台云く「分身すでに多し、まさに知るべし成仏の久しきことを」等云云。大会(だいえ)のをどろきし意(こころ)をかゝれたり。

その上に地涌千界(じゆせんがい)の大菩薩大地より出来(しゆつらい)せり。釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢・文殊等にもにるべくもなし。華厳・方等・般若・法華経の宝塔品に来集せる大菩薩、大日経等の金剛薩埵(さつた)等の十六の大菩薩なんども、この菩薩に対当(たいとう)すれば獼猴(みこう)の群中(むらがるなか)に帝釈の来(きた)り給うがごとし。山人(やまかつ)に月卿(げつけい)等のまじわれるにことならず。補処(ふしよ)の弥勒(みろく)すらなお迷惑せり。いかにいわんや、その已下(いげ)をや。この千世界の大菩薩の中に四人の大聖(だいしよう)まします。いわゆる上行(じようぎよう)・無辺行(むへんぎよう)・浄行(じようぎよう)・安立行(あんりゆうぎよう)なり。この四人は虚空・霊山の諸大菩薩等、眼(まなこ)もあはせ心もをよばず。華厳経の四菩薩・大日経の四菩薩・金剛頂経の十六大菩薩等も、この菩薩に対すれば翳眼(えいげん)のものゝ日輪(にちりん)を見るがごとく、海人(あま)が皇帝に向(むか)いたてまつるがごとし。大公(たいこう)等の四聖(しせい)の衆中(しゆちゆう)にあつしににたり。商山(しようざん)の四皓(しこう)が恵帝(けいてい)に仕(つか)えしにことならず。巍々堂々(ぎぎどうどう)として尊高(そんこう)なり。釈迦・多宝・十方の分身を除いては一切衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし。