開目抄(かいもくしょう)

問て云く、華厳経・方等経・般若経・深密経・楞伽経・大日経・涅槃経等は九易(くい)の内(うち)か、六難の内か。
答(こたえ)て云く、華厳宗の杜順(とじゆん)・智儼(ちごん)・法蔵(ほうぞう)・澄観(ちようかん)等の三蔵大師読(よん)で云く、華厳経と法華経と六難の内(うち)、名は二経なれども所説乃至理これ同じ。「四門観別(しもんかんべつ)、真諦を見ること同じ」のごとし。
法相の玄奘三蔵・慈恩大師等読(よん)で云く、深密経と法華経とは同(おなじ)く唯識の法門にして第三時の教、六難の内(うち)なり。三論の吉蔵等読で云く、般若経と法華経とは名異体同(みよういたいどう)、二経一法(にきよういつぽう)なり。
善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵等読で云く、大日経と法華経とは理同、をなじく六難の内の経なり。
日本の弘法読で云く、大日経は六難九易の内にあらず。大日経は釈迦所説の一切経の外(ほか)、法身(ほつしん)大日如来の所説なり。
またある人云く、華厳経は報身(ほうじん)如来の所説、六難九易の内にはあらず。
この四宗の元祖等かやうに読みければ、その流(ながれ)をくむ数千の学徒等もまたこの見(けん)をいでず。

日蓮なげいて云く、上(かみ)の諸人の義を左右(さう)なく非なりといわば当世の諸人面(おもて)を向(むく)べからず。非に非をかさね、結句は国王に讒奏(ざんそう)して命(いのち)に及ぶべし。
ただし我等が慈父、双林(そうりん)最後の御遣言(ごゆいごん)に云く「法に依つて人(にん)に依らざれ」等云云。「人に依らざれ」等とは、初依(しよえ)・二依(にえ)・三依(さんえ)・第(だい)四依(しえ)。普賢(ふげん)・文殊(もんじゆ)等の等覚(とうがく)の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用(もちう)べからず。「了義経(りようぎきよう)に依つて不了義経に依らざれ」と定めて、経の中にも了義・不了義経を糺明(きゆうめい)して信受すべきこそ候(そうら)いぬれ。竜樹菩薩の十住毘婆沙論(びばしやろん)に云く「修多羅黒論(しゆたらこくろん)に依らずして、修多羅白論(びやくろん)に依れ」等云云。天台大師云く「修多羅と合う者は録してこれを用い、文(もん)なく義なきは信受すべからず」等云云。伝教大師云く「仏説(ぶつせつ)に依憑(えびよう)して口伝(くでん)を信ずることなかれ」等云云。円珍智証大師云く「文に依つて伝うべし」等云云。
上(かみ)にあぐるところの諸師の釈、みな一分(いちぶん)々々経論に依て勝劣を弁(わきま)うやうなれども、みな自宗を堅く信受し先師の謬義(びゆうぎ)をたださざるゆへに、曲会私情(きよくえしじよう)の勝劣なり。荘厳己義(しようごんこぎ)の法門なり。仏滅後の犢子(とくし)・方広(ほうこう)、後漢已後の外典は仏法外の外道の見よりも、三皇五帝の儒書よりも、邪見強盛(ごうじよう)なり。邪法巧(たくみ)なり。華厳・法相・真言等の人師(にんし)、天台宗の正義(しようぎ)を嫉(ねたむ)ゆへに、「実経の文を会(え)して権義(ごんぎ)に順ぜしむること」強盛(ごうじよう)なり。しかれども道心あらん人、偏党をすて、自他宗をあらそはず、人をあなづる事なかれ。

法華経に云く「已今当(いこんとう)」等云云。妙楽云く「縦(たと)い経あつて諸経の王と云うとも、已今当説最為第一(さいいだいいち)と云わず」等云云。また云く「已・今・当の妙、茲(ここ)において固く迷う。謗法(ほうぼう)の罪苦長劫(ざいくちようこう)に流る」等云云。
この経釈(きようしやく)にをどろいて、一切経並に人師(にんし)の疏釈(しよしやく)を見るに、狐疑(こぎ)の氷とけぬ。今真言の愚者等、印・真言のあるをたのみて、真言宗は法華経にすぐれたりとをもひ、慈覚大師等の真言勝(すぐ)れたりとをほせられぬれば、なんどをもえるはいうにかいなき事なり。

密厳経(みつごんきよう)に云く「十地(じゆうじ)・華厳経・大樹(だいじゆ)と神通(じんずう)・勝鬘(しようまん)及び余経と、皆この経より出でたり。かくのごときの密厳経は、一切経の中に勝(すぐ)れたり」等云云。
大雲経(だいうんきよう)に云く「この経は即ちこれ諸経の転輪聖王(てんりんじようおう)なり。何を以ての故に。この経典(きようてん)の中に衆生の実性(じつしよう)・仏性、常住の法蔵を宣説(せんぜつ)する故なり」等云云。
六波羅蜜経に云く「いわゆる過去無量の諸仏所説の正法及び我が今説くところの、いわゆる八万四千の諸(もろもろ)の妙法蘊摂(みょうほうおんしよう)して五分(ごぶん)となす。一には索咀纜(そたらん)・二には毗那耶(びなや)・三には阿毗達磨(あびだるま)・四には般若波羅蜜(はんにやはらみつ)・五には陀羅尼門(だらにもん)となり。この五種の蔵(ぞう)をもて有情(うじよう)を教化(きようけ)す。もし彼の有情、契経(かいきよう)・調伏(ちようぶく)・対法(たいほう)・般若を受持することあたわず。或はまた有情諸の悪業(あくごう)、四重(しじゆう)・八重・五無間罪(ごむけんざい)、方等経を謗ずる一闡提等の種々の重罪を造るに、銷滅(しようめつ)して速疾(そくしつ)に解脱し、頓(とん)に涅槃を悟ることを得せしむ。しかも彼がために諸の陀羅尼蔵を説く。この五の法蔵、譬えば乳(にゆう)・酪(らく)・生蘇(しようそ)・熟蘇(じゆくそ)及び妙(たえ)なる醍醐(だいご)のごとし。総持門とは、譬えば醍醐のごとし。醍醐の味は乳・酪・蘇の中に微妙(みみよう)第一にして、能く諸の病(やまい)を除き、諸の有情をして身心安楽ならしむ。総持門とは、契経(かいきよう)等の中に最も第一にして能く重罪を除くと」等云云。
解深密経(げじんみつきよう)に云く「爾の時に勝義生(しようぎしよう)菩薩、また仏に白(もう)して言(もうさ)く、世尊初め一時において、波羅痆斯(はらなつし)、仙人堕処施鹿林(だしよせろくりん)の中(うち)に在(あ)つて、唯声聞乗を発趣(ほつしゆ)する者のために、四諦(したい)の相を以て正法輪(しようぼうりん)を転じたまいき。これ甚(はなは)だ奇、甚だこれ希有(けう)にして、一切世間の諸の天人等、先より能く法のごとく転ずる者あることなしといえども、しかも彼の時において転じたもうところの法輪は、有上(うじよう)なり、有容(うよう)なり、これ未了義(みりようぎ)なり、これ諸の諍論安足(じようろんあんそく)の処所(ところ)なり。世尊、在昔(むかし)第二時の中に、ただ発趣して大乗を修(しゆ)する者のために一切の法は皆無自性(むじしよう)なり、無生無滅(むしようむめつ)なり、本来寂静(じやくじよう)なり、自性涅槃(じしようねはん)なるに依り、隠密(おんみつ)の相を以て正法輪(しようぼうりん)を転じたまいき。更に甚(はなは)だ奇にして、甚だ為(こ)れ希有なりといえども、しかも彼の時において転じたもうところの法輪、またこれ有上(うじよう)なり、容受(ようじゆ)するところあり、なおいまだ了義ならず、これ諸の諍論安足の処所(ところ)なり。世尊、今第三時の中(うち)において、普(あまね)く一切乗を発趣(ほつしゆ)する者のために、一切の法は皆無自性・無生無滅・本来寂静・自性涅槃にして、無自性の性(しよう)なるに依り、顕了(けんりよう)の相を以て正法輪を転じたもう。第一甚だ奇にして最もこれ希有なり。今に世尊転じたもうところの法輪、無上無容にして、これ真の了義なり。諸の諍論安足の処所にあらず」等云云。
大般若経に云く「聴聞するところの世(せ)・出世(しゆつせ)の法に随つて、皆能く方便して般若甚深(じんじん)の理趣に会入(えにゆう)し、諸の造作(ぞうさ)するところの世間の事業(じごう)もまた般若を以て法性(ほつしよう)に会入(えにゆう)し、一事として法性を出(いず)る者を見ず」等云云。
大日経第一に云く「秘密主、大乗行あり。無縁乗(むえんじよう)の心を発(おこ)す。法に我性(がしよう)無し。何を以ての故に。彼(か)の往昔(むかし)かくのごとく修行せし者のごとくんば蘊(うん)の阿頼耶(あらや)を観察して、自性は幻(まぼろし)のごとしと知る」等云云。また云く「秘密主、彼(かれ)かくのごとく無我を捨て、心主(しんしゆ)自在にして、自心の本不生(ほんぶしよう)を覚(さと)す」等云云。また云く「いわゆる空性(くうしよう)は根境(こんきよう)を離れ、無相にして境界(きようがい)なく、諸の戯論(けろん)に越えて、虚空に等同なり。乃至極無自性(ごくむじしよう)」等云云。また云く「大日尊、秘密主に告げて言く、秘密主、云何(いか)なるか菩提なる。謂く、実(じつ)のごとく自心を知る」等云云。
華厳経に云く「一切世間の諸の群生(ぐんじよう)、声聞道を求めんと欲することあること尠(すくな)し。縁覚を求むる者、転(うたた)また少なし。大乗を求むる者、甚(はなは)だ希有なり。大乗を求むる者、なおこれ易(やす)く、能くこの法を信ずる、これ甚だかたし。いわんや能く受持し、正憶念(しようおくねん)し、説のごとく修行し、真実に解(げ)せんをや。もし三千大千界を以て頂戴すること一劫、身(み)動かざらんも、彼(か)の所作(しよさ)いまだこれ難(かた)からず。この法を信ずるはこれ甚だ難(かた)し。大千塵数(だいせんじんじゆ)の衆生(しゆじよう)の類に、一劫諸(もろもろ)の楽具(らくぐ)を供養するも、彼の功徳いまだこれ勝(すぐ)れず。この法を信ずるはこれ殊勝なり。もし掌(たなごころ)を以て十仏刹(じゆうぶつせつ)を持(じ)し、虚空中(こくうちゆう)において住すること一劫なるも、彼の所作いまだこれ難(かた)からず。この法を信ずるはこれ甚だ難(かた)し。十仏刹塵(じゆうぶつせつじん)の衆生の類に、一劫 諸の楽具を供養せんも、彼の功徳いまだ勝(まさ)れりとなさず。この法を信ずるはこれ殊勝(しゆしよう)なり。十刹塵の数の諸の如来を、一劫恭敬(くぎよう)して供養せん。もし能くこの品(ほん)を受持せん者の功徳 彼よりも最勝となす」等云云。
涅槃経に云く「この諸の大乗方等経典(きようでん)は、また無量の功徳を成就すといえども、この経に比せんと欲するに喩(たとえ)をなすを得ざること百倍・千倍・百千万億、乃至算数(さんじゆ)譬喩も及ぶこと能わざるところなり。善男子(ぜんなんし)、譬えば牛より乳を出(いだ)し、乳より酪を出し、酪より生蘇(しようそ)を出し、生蘇より熟蘇(じゆくそ)を出し、熟蘇より醍醐(だいご)を出す。醍醐は最上なり。もし服することある者は、衆病皆(みな)除き、所有(しよう)の諸楽も悉くその中に入るがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏(ほとけ)より十二部経を出(いだ)し、十二部経より修多羅(しゆたら)を出し、修多羅より方等経(ほうどうきよう)を出し、方等経より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出し、なお醍醐のごとし。醍醐と言うは仏性(ぶつしよう)に喩(たと)う」等云云。

これらの経文を法華経の已今当(いこんとう)・六難九易(くい)に相対すれば、月に星をならべ、九山(くせん)に須弥(しゆみ)を合(あわ)せたるににたり。
しかれども華厳宗の澄観、法相・三論・真言等の慈恩・嘉祥・弘法等の仏眼(ぶつげん)のごとくなる人なおこの文(もん)にまどへり。いかにいわんや盲眼(もうげん)のごとくなる当世の学者等、勝劣を弁(わきま)うべしや。
黒白(こくびやく)のごとくあきらかに、須弥・芥子(けし)のごとくなる勝劣なをまどへり。いはんや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや。
教の浅深(せんじん)をしらざれば理の浅深弁うものなし。巻(かん)をへだて文(もん)前後すれば、教門の色弁えがたければ、文を出(いだ)して愚者を扶(たすけ)んとをもう。
王に小王・大王、一切に少分(しようぶん)・全分・五乳に全喩(ぜんゆ)・分喩を弁うべし。六波羅蜜経は有情の成仏あて、無性の成仏なし。いかにいわんや久遠実成をあかさず。なお涅槃経の五味(ごみ)にをよばず、いかにいわんや法華経の迹門・本門にたいすべしや。しかるに日本の弘法大師、この経文(きようもん)にまどひ給(たまい)て、法華経を第四の熟蘇味(じゆくそみ)に入れ給えり。第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばず、いかにし給(たまい)けるやらん。しかるを「震旦人師争盗(にんしじようとう)醍醐」と天台等を盗人(ぬすびと)とかき給へり。「惜哉古賢不嘗醍醐(しやくさいこけんふしようだいご)」等と自歎(じたん)せられたり。

これらはさてをく。我が一門の者のためにしるす。他人は信ぜざれば逆縁なるべし。一渧(いつたい)をなめて大海のしを(潮)をしり、一華(いつけ)を見て春を推せよ。万里をわたて宋に入らずとも、三箇年を経て霊山(りようぜん)にいたらずとも、竜樹のごとく竜宮に入らずとも、無著(むじやく)菩薩のごとく弥勒菩薩にあはずとも、二処三会(にしよさんね)に値わずとも、一代の勝劣はこれをしれるなるべし。蛇(じや)は七日が内(うち)の洪水をしる、竜の眷属なるゆへ。烏は年中の吉凶をしれり、過去に陰陽師(おんみようじ)なりしゆへ。鳥はとぶ徳、人にすぐれたり。日蓮は諸経の勝劣をしること、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の弘法にすぐれたり。天台・伝教の跡(あと)をしのぶゆへなり。彼(かの)人々は天台・伝教に帰(き)せさせ給はずは謗法の失(とが)脱れさせ給うべしや。当世(とうせい)日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命(いのち)は法華経にたてまつる。名をば後代に留(とどむ)べし。大海(だいかい)の主(ぬし)となれば諸の河神(かじん)皆したがう。須弥山の王に諸の山神(さんじん)したがわざるべしや。法華経の六難九易を弁(わきま)うれば一切経よまざるにしたがうべし。

宝塔品の三箇(さんが)の勅宣の上に提婆品に二箇(にか)の諫暁(かんぎよう)あり。
提婆達多は一闡提なり、天王(てんのう)如来と記(き)せらる。涅槃経四十巻の現証はこの品(ほん)にあり。善星(ぜんしよう)・阿闍世等の無量の五逆・謗法の者、一をあげ頭(かしら)をあげ、万ををさめ枝をしたがふ。一切の五逆・七逆・謗法・闡提、天王如来にあらはれおわんぬ。毒薬変じて甘呂(かんろ)となる。衆味(しゆうみ)にすぐれたり。竜女(りゆうによ)が成仏これ一人(いちにん)にはあらず、一切の女人(によにん)の成仏をあらわす。法華経已前の諸の小乗経には女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転(がいてん)の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実(うみようむじつ)の成仏往生なり。挙一例諸(こいちれいしよ)と申して、竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし。

儒家(じゆけ)の孝養は今生(こんじよう)にかぎる。未来の父母を扶(たす)けざれば、外家(げけ)の聖賢(せいけん)は有名無実なり。外道は過(か)・未(み)をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世(ごせ)を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗(きようしゆう)は自身の得道なおかなひがたし。いかにいわんや父母をや。ただ文(もん)のみあて義なし。今法華経の時こそ女人成仏の時、悲母(ひも)の成仏も顕(あら)われ、達多(だつた)の悪人成仏の時慈父の成仏も顕わるれ。この経は内典(ないでん)の孝経なり。二箇(にか)のいさめおわんぬ。