開目抄(かいもくしょう)

外典(げてん)三千余巻の所詮に二つあり。
いわゆる孝(こう)と忠(ちゆう)となり。忠もまた孝の家よりいでたり。孝と申すは高(こう)なり。天高(たか)けれども孝よりも高からず。また孝とは厚(こう)なり。地あつけれども孝よりは厚(あつ)からず。聖賢(せいけん)の二類は孝の家よりいでたり。いかにいわんや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしつて知恩報恩をほうずべし。その上舎利弗・迦葉等の二乗は二百五十戒・三千の威儀持整(いぎじせい)して、味(み)・浄(じよう)・無漏(むろ)の三静慮(さんじようりよ)、阿含経をきわめ、三界(さんがい)の見思(けんじ)を尽くせり。知恩報恩の人の手本なるべし。しかるを不知恩の人なりと世尊定(さだ)め給(たまい)ぬ。その故は父母の家を出(いで)て出家(しゆつけ)の身となるは必ず父母をすくはんがためなり。二乗は自身は解脱とをもえども、利他の行(ぎよう)かけぬ。たとい分分(ぶんぶん)の利他ありといえども、父母等を永不成仏(ようふじようぶつ)の道に入(い)るれば、かへりて不知恩の者となる。
維摩経(ゆいまきよう)に云く「維摩詰(ゆいまきつ)また文殊師利(もんじゆしり)に問う。何等(なんら)をか如来の種(しゆ)となす。答えて曰く、一切塵労(じんろう)の疇(ともがら)を如来の種となす。五無間(ごむけん)を以て具(ぐ)すといえども、なお能(よ)くこの大道意(だいどうい)を発(おこ)す」等云云。
また云く「譬えば族姓(ぞくしよう)の子、高原陸土(こうげんりくど)には青蓮(しようれん)・芙蓉(ふよう)の衡華(こうけ)を生(しよう)ぜず。卑湿汙田(ひしつおでん)に乃(すなわ)ちこの華(はな)を生ずるがごとし」等云云。
また云く「すでに阿羅漢を得て応真(おうしん)となる者は、終(つい)にまた道意を起(おこ)して仏法を具することあたわざるなり。根敗(こんぱい)の士のその五楽(ごらく)においてまた利することあたわざるがごとし」等云云。
文(もん)の心は貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)等の三毒は仏(ほとけ)の種となるべし、殺父(しいぶ)等の五逆罪は仏種となるべし。高原の陸土には青蓮華生(しよう)ずべし。二乗は仏になるべからず。
いう心は二乗の諸善と凡夫の悪と相対(そうたい)するに、凡夫の悪は仏になるとも二乗の善は仏にならじとなり。諸(もろもろ)の小乗経には悪をいましめ善をほむ。この経には二乗の善をそしり凡夫の悪をほめたり。かへて仏経(ぶつきよう)ともをぼへず、外道の法門のやうなれども、詮(せん)ずるところは二乗の永不成仏(ようふじようぶつ)をつよく定めさせ給(たもう)にや。方等陀羅尼経(ほうどうだらにきよう)に云く「文殊、舎利弗に語(かた)らく、なお枯れたる樹(き)のごとく更(さら)に華(はな)を生(しよう)ずるやいなや。また、山水(さんすい)のごとく本処(ほんしよ)に還(かえ)るやいなや。折(お)れたる石、還(かえ)つて合(あ)うやいなや。燋(い)れる種芽(たねめ)を生(しよう)ずるやいなや。舎利弗の言く、否(いな)なり。文殊の言く、もし得(う)べからずんば、云何(いかん)ぞ我(われ)に菩提の記(き)を得るを問うて、歓喜(かんぎ)を生ずるや不(いな)や」等云云。文(もん)の心は、枯れたる木華(はな)さかず、山水(さんすい)山にかへらず、破(われ)たる石あはず、いれる種(たね)をいず、二乗またかくのごとし。仏種(ぶつしゆ)をいれり等(とう)となん。
大品(だいぼん)般若経に云く「諸の天子、今未(いま)だ三菩提心(さんぼだいしん)を発(おこ)さざる者、まさに発(おこ)すべし。もし声聞の正位(しようい)に入(い)れば、この人能く三菩提心を発さざるなり。何を以ての故に。生死のために障隔(しようきやく)を作(な)すが故に」等云云。文の心は二乗は菩提心ををこさざれば我随喜(われずいき)せじ、諸天は菩提心ををこせば我(われ)随喜せん。
首楞厳経(しゆりようごんきよう)に云く「五逆罪の人はこの首楞厳三昧を聞いて、阿耨菩提心(あのくぼだいしん)を発(おこ)せば還(かえ)つて仏(ほとけ)と作(な)るを得ん。世尊(せそん)、漏尽(ろじん)の阿羅漢はなお破器(はき)のごとく、永(なが)くこの三昧(さんまい)を受くるに堪忍(かんにん)せず」等云云。
浄名経(じようみようきよう)に云く「それ汝に施(せ)す者は福田(ふくでん)と名づけず。汝を供養せん者は三悪道(さんあくどう)に堕(だ)す」等云云。
文(もん)の心は迦葉・舎利弗等の聖僧を供養せん人天(にんでん)等は必ず三悪道に堕(お)つべしとなり。これらの聖僧は仏陀を除きたてまつりては人天の眼目(がんもく)、一切衆生の導師とこそをもひしに、幾許(いくばく)の人天大会(だいえ)の中(うち)にして、かう度々(たびたび)仰せられしは本意(ほんい)なかりし事なり。ただ詮(せん)ずるところは、我御弟子(わがみでし)を責めころさんとにや。
このほか牛(ご)・驢二乳(ろににゆう)、瓦器(がき)・金器(こんき)、蛍火(けいか)・日光(につこう)等の無量の譬(たと)えをとて二乗を呵責(かしやく)せさせ給(たまい)き。一言二言(いちごんにごん)ならず、一日二日(いちにちににち)ならず、一月二月(ひとつきふたつき)ならず、一年二年ならず、一経二経ならず、四十余年(しじゆうよねん)が間(あいだ)、無量無辺の経々に、無量の大会(だいえ)の諸人に対して、一言(いちごん)もゆるし給(たもう)事もなく、そしり給(たもい)しかば、世尊の不妄語なりと我(われ)もしる、人もしる、天もしる、地もしる。一人二人(いちにんににん)ならず百千万人、三界(さんがい)の諸天・竜神・阿修羅・五天・四州・六欲・色(しき)・無色・十方世界より雲集(うんじゆう)せる人天(にんてん)・二乗・大菩薩等、皆これをしる、また皆これをきく。
各々国々(おのおのくにぐに)へ還(かえ)りて、娑婆世界の釈尊の説法を彼々(かれがれ)の国々にして一々にかたるに、十方無辺の世界の一切衆生一人もなく、迦葉・舎利弗等は永不成仏(ようふじようぶつ)の者、供養してはあしかりぬべしとしりぬ。

しかるを後八年(ごはちねん)の法華経に忽(たちまち)に悔還(くいかえ)して、二乗作仏すべしと仏陀とかせ給はんに、人天大会信仰をなすべしや。
用(もち)ゆべからざる上、先後(せんご)の経々に疑網(ぎもう)をなし、五十余年の説教みな虚妄(こもう)の説となりなん。
されば「四十余年未顕真実」等の経文はあらまさせか。天魔の仏陀と現じて後八年の経をばとかせ給(たもう)かと疑網するところに、げに〳〵しげに劫国名号(こうこくみようごう)と申して、二乗成仏の国をさだめ、劫(こう)をしるし、所化(しよけ)の弟子なんどを定めさせ給(たま)へば、教主釈尊の御語(おんことば)すでに二言(にごん)になりぬ。自語相違(じごそうい)と申すはこれなり。
外道が仏陀を大妄語の者と咲(わら)いしことこれなり。人天大会、興(きよう)さめてありし程に、その時に東方宝浄世界の多宝如来、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大七宝塔(だいしつぽうとう)に乗じて、教主釈尊の人天大会に自語相違をせめられて、とのべ(左宣)かうのべ(右述)、さまざまに宣(のべ)させ給いしかども、不審なをはるべしともみへず、もてあつかいてをはせし時、仏前に大地より涌現(ゆげん)して虚空(こくう)にのぼり給う。例(れい)せば暗夜(あんや)に満月の東山(とうざん)より出(いず)るがごとし。七宝(しつぽう)の塔大虚(おおぞら)にかゝらせ給いて、大地にもつかず大虚(おおぞら)にも付(つ)かせ給はず、天中(そらなか)に懸(かか)りて、宝塔の中(うち)より梵音声(ぼんのんじよう)を出(いだ)して証明(しようみよう)して云く、「爾(そ)の時に宝塔の中より大音声(だいおんじよう)を出して歎(ほ)めて言(のたま)わく、善哉(ぜんざい)善哉。釈迦牟尼世尊、能(よ)く平等大慧(びようどうだいえ)・教菩薩法(きようぼさつぽう)・仏所護念(ぶつしよごねん)の妙法華経を以て、大衆(だいしゆ)のために説きたもう。かくのごとしかくのごとし、釈迦牟尼世尊、所説のごときは皆これ真実なり」等云云。

また云く「爾の時に世尊、文殊師利等の無量百千万億旧住(ひやくせんまんのくくじゆう)娑婆世界の菩薩乃至人非人等(ないしにんぴにんとう)の一切の衆(しゆ)の前において大神力(だいじんりき)を現じたもう。広長舌(こうちようぜつ)を出(いだ)して、上梵世(かみぼんぜ)に至らしめ、一切の毛孔(もうく)より、乃至十方世界衆(もろもろ)の宝樹(ほうじゆ)の下(もと)の師子の座の上の諸仏もまたまたかくのごとく広長舌を出(いだ)し、無量の光を放ちたもう」等云云。また云く「十方より来りたまえる諸の分身(ふんじん)の仏をして、各(おのおの)本土に還らしむ。乃至多宝仏の塔、還(かえつ)て故(もと)のごとくしたもうべし」等云云。

大覚(だいがく)世尊初成道(しよじようどう)の時、諸仏十方に現じて釈尊を慰喩(いゆ)し給う上、諸の大菩薩を遣(つかわ)しき。般若経の御時は釈尊長舌を三千にをほひ、千仏十方に現じ給う。金光明経には四方の四仏現ぜり。阿弥陀経には六方の諸仏舌を三千にををう。大集経(だいじつきよう)には十方の諸仏菩薩大宝坊(だいほうぼう)にあつまれり。

これらを法華経に引き合(あわ)せてかんがうるに、黄石(こうせき)と黄金(おうごん)と、白雲(はくうん)と白山(はくさん)と、白氷(はくひよう)と銀鏡(ぎんきよう)と、黒色(こくしよく)と青色(せいしよく)とをば、翳眼(えいがん)の者・眇目(みようもく)の者・一眼(いちげん)の者・邪眼(じやげん)の者はみたがへつべし。
華厳経には先後の経なければ仏語相違なし。なにゝつけてか大疑(たいぎ)いで来(く)べき。大集経・大品経(だいぼんきよう)・金光明経・阿弥陀経等は諸の小乗経の二乗を弾呵(たんが)せんがために十方に浄土をとき、凡夫・菩薩を欣慕(ごんぼ)せしめ、二乗をわづらはす。小乗経と諸大乗経と一分(いちぶん)の相違あるゆへに、或は十方に仏(ほとけ)現じ給ひ、或は十方より大菩薩をつかはし、或は十方世界にもこの経をとくよしをしめし、或は十方より諸仏あつまり給う。或は釈尊舌を三千にをほひ、或は諸仏の舌をいだすよしをとかせ給う。これひとえに諸の小乗経の「十方世界に唯一仏(ただいちぶつ)のみ有り」ととかせ給しをもひをやぶるなるべし。
法華経のごとくに先後の諸大乗経と相違出来(しゆつらい)して、舎利弗等の諸の声聞・大菩薩・人天(にんてん)等に「将(まさ)に魔(ま)の仏と作(な)るに非(あら)ずや」とをもはれさせ給う大事にはあらず。
しかるを華厳・法相・三論・真言・念仏等の翳眼(えいがん)の輩(ともがら)、彼々(かれがれ)の経々(きようぎよう)と法華経とは同じとうちをもへるは、つたなき眼(まなこ)なるべし。

ただし在世(ざいせ)は四十余年をすてて法華経につき候(そうろう)ものもやありけん。
仏滅後にこの経文を開見して信受せんことかたかるべし。まづ一(いち)には爾前の経々は多言(たごん)なり、法華経は一言(いちごん)なり。爾前の経々は多経(たきよう)なり、この経は一経(いつきよう)なり。彼々(かれがれ)の経々は多年なり、この経は八年なり。
仏は大妄語の人永く信ずべからず。不信の上に信を立てば爾前の経々は信ずる事(こと)もありなん。法華経は永(なが)く信ずべからず。当世(とうせい)も法華経をばみな信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。
その故(ゆえ)は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一(いつ)なるやうをとく人をば悦(よろこん)で帰依し、別々なるなんど申(もう)す人をば用(もち)いず。たとい用ゆれども本意(ほんい)なき事とをもへり。

日蓮云く、日本に仏法わたりてすでに七百(しちひやく)余年、ただ伝教大師一人(いちにん)ばかり法華経をよめりと申すをば、諸人(しよにん)これを用(もちい)ず。
ただし法華経に云く「もし須弥(しゆみ)を接(とつ)て他方の無数(むしゆ)の仏土に擲(な)げ置(お)かんも、またいまだ為(こ)れ難(かた)しとせず。乃至もし仏滅後に悪世(あくせ)の中(うち)において、能くこの経を説かん、これ則ち為(こ)れ難(かた)し」等云云。
日蓮が強義(ごうぎ)、経文(きようもん)には普合(ふごう)せり。法華経の流通(るつう)たる涅槃経に、末代濁世(まつだいじよくせ)に謗法(ほうぼう)の者は十方(じつぽう)の地(ち)のごとし。正法(しようぼう)の者は爪上(そうじよう)の土(つち)のごとしと、とかれて候(そうろう)はいかんがし候べき。日本の諸人(しよにん)は爪上の土か、日蓮は十方の土か、よくよく思惟(しゆい)あるべし。
賢王の世には道理かつべし。愚主(ぐしゆ)の世に非道先(さき)をすべし。聖人の世に法華経の実義顕(あらわ)るべし等(とう)と心うべし。この法門は迹門(しやくもん)と爾前(にぜん)と相対(そうたい)して爾前の強きやうにをぼう。もし爾前つよるならば、舎利弗等の諸の二乗は永不成仏の者なるべし。いかんがなげかせ給(たもう)らん。