き・れ・い・ご・と

大黒様やお稲荷様などの神様をご自宅でお祀りしている人がいます。

当教会でも、このような方々のところへお伺いして、一緒にご供養をさせていただいています。

これらの方々は、お祀りしている神様の縁日にはお供えをしたり、毎日手を合わせたりと篤信の方が多いのです。そしてお祈りをしたからなにか直接的な利益を得られるとは考えていない人が多いように思っています。直接的な利益よりも、なんとなくだが自分は守られている。だからきっと前に進んでいける。このような安心を得るためにご信仰している人が多いように感じています。

しかしこのような篤信の方も高齢化が進み、もうお祀りを続けられないと仰る方が増えています。当教会ではこのようなことが増えています…。

篤信の方々のご家族様の中には、このような信仰が理解できない方もいらっしゃるようです。祈ることで直接的な利益が得られるわけではないのですから、このように考えてしまうのも当然と言えば当然の帰結なのでしょう…。

信仰はある意味、きれいごと、なのです。私たちは先の見えない未来に対して、恐怖や心配を抱きがちです。そして前に一歩を踏み出せなくなりがちです。

このような時、信仰という一種のきれいごとを利用するのです。

私が若い頃お世話になったある篤信のご婦人(故人)に次のように言われたのを覚えています。

毎日信仰することで、何か分からないけれど、自分には見えない・感じられない存在に見守ってもらっている気がする。この存在になんとかなるからすすんでみろと背中を押してもらっているのだと思うようにする。このように信仰していたから、私はなんとかここまでやってこれたと。

この方は自分の中にある漠然とした不安を信仰することによってどうにかしようとしていたのでしょう。

すばらしい信仰態度だと思ったのでした。

信仰はきれいごとに思えても、使い方次第で大変有効なものに成り得ると思っています。上に書いた篤信のご婦人のように信仰を利用してほしいなと願う次第です。

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