一つ前の投稿の続きです。
信仰は、真っ暗闇の中でも必ず出口があると思えるようにするための営み。このように書きました。
ではお題目では、どのようにこの出口を示しているのでしょう。
まずこの信仰では、久遠実成本師釈迦牟尼仏というこの世に常住する仏様がいるとします。そして、この方と私たちはとても深い縁で結ばれているとも。この深い縁とは、私たちはこの世に生まれ変わり、死に変わりしつつ、久遠実成本師釈迦牟尼仏の導きに浴しているということです。
つまり、お題目の教えでは、私たちが生きるこの世は浄土(=仏様のいらっしゃる世界)だということです。この浄土に私たちは生き代わり、死に変わりしつつ存在し、久遠実成本師釈迦牟尼仏の導きを得ているというのです。私たちのこの世界は、仏様の世界、浄土ですから、素晴らしい世界ということになります。
でも現実にはとてもそう思えないですね。毎日のように悲惨なニュースが流れてきます。自分のことを考えても何かしらの嫌な体験をするのは日常茶飯事です。素晴らしい世界というより、思うようにいかない世界。こう思ってしまうのです。
この思いを持ったうえで、よく考えてみたいのです。私たちのこの世はどういった在り方をしているかと。そこで考えてみると、この世の在り方は誰にでも平等といえると思うのです。なぜなら悪いことをしたものを大地を割って奈落に落としてしまうということはありません。空気を吸わせないということもありません。食べ物を得られなくするという事もありません。私たちが悪いことをしていようが、良いことをしていようが、関係なく、この世はあるがまま、誰も裁くことなく、ここにあります。私たち全員を受け入れてくれています。この世は決して私たちを、どんな行いをしていようが拒否はしません。
裁くのは、いつだって私たち人間。この世ではないといえます。
このようなこの世の在り方を、仏様が私たちにかける慈悲の心と受け取っていく。つまり久遠実成本師釈迦牟尼仏が確かにこの世に常住している証拠だととらえていく。これがお題目信仰かと思うのです。
そして私たちは誰でも久遠実成本師釈迦牟尼仏の慈悲の心に見守られている。こう思い、まず自分の安心を得る。そして次にこの慈悲の心を得たいと思うようになり、得られるようにと努力をしていくようになっていく。
多くの人がこのような努力を始めるようになった時、今、私たちが生きている思うようにいかない世界という現実が、久遠実成本師釈迦牟尼仏の常住する浄土という真実になるのでしょう。
お題目信仰で、この世の真実の姿を信じる時、出口が見えてくる。このように思うのです。まだまだ未熟で、時々、思うだけのですが…。ちょっとだけ書いてみました。