四十九日までとその後の供養

宗教・信仰というものは、個人的な気持ちの部分が多々あります。どういうことかというと、自分はこう信じている。自分はこう信じているなど。一人一人、皆、信じるところが違うわけです。

私は供養というものは「人が亡くなってから四十九日」までと「それ以後」では意味合いが違うと思っています。

前者は、故人が生前の生き方を清算し新たな生を良いものとするため。後者は新しい生を始めた故人を見守るため。こう考えています。

前者では、故人の魂は生前を覚えていて、生前の自分の行いを思い出しつつ過ごしている。そして良かったこと。悪かったこと。後悔などをする。最終的にこれらを閻魔大王が裁くわけです。

惜しむらくは、後悔があったとしても故人は自分では何もできないということ。そこで遺族が故人に代わって、善い行い・良い心がけで過ごすのです。こうすることで、遺族の行いが故人の行いの代わりをするのです。追善供養というものです。遺族の善を故人に追加するのです。

閻魔大王は遺族の行いをも加味してくれるのです。だから四十九日までの供養は、善行を心掛け、故人のこれからの生をより良いものにするためにあるのだと私は考えています。

対して、後者では故人は新しい生を始めていると考えています。もう生前のことはすっかり忘れています。だからこちらの供養では、どうか新しい生が良いものでありますように、幸せでありますようにと見守る気持ちで行います。小さな子供を優しく見るような感じでしょうか?このような感じで供養をしていきます。

そして20年。これを続けると故人も向こうの世界で一人前になっていることでしょう。遺族は、故人は成仏したと考え、お戒名を返し、以後は○○家のご先祖様として手を合わせるようにします。戒名を持った一柱の霊ではなく、ご先祖様の霊と一体化してしまうのです。故人の霊の成仏の時です。これを弔い明けと言います。

弔い明けは通常は33年だったり、50年と言われます。こちらが一般的な考え方です。私個人が20年と自分の想いから20年と考えているだけですので、ここはご了承ください。

このように考えると、私の母は、今、新しい親のお腹の中にいる胎児のような状態でしょうか?すくすくと育って、元気に産まれるようにと、毎日仏壇で供養しています。

(※あくまで私個人の信仰です)

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