どう考えて…

お題目を唱えるといいのでしょうか?

それをどう伝えればいいのだろうか?

このように悩んできました。

お題目を口に唱えるのは簡単です。

南無妙法蓮華経といえばいいのですから。

そしてありがたい言葉なのだと信じて只管唱える。

これも立派な信仰だと思います。

でも只管信じて唱えることができる人ならばいいのでしょうが…、

そうでない人もいらっしゃるはずです。

その人たちにお題目の良さを、意義をどう伝えるか???

とても難しいと思っています。

試しに書いてみます。

まずこの世に存在するすべては有限です。

有限だけど、未来につないでいけます。

親が子を育て、

その子供がまた子を育てる…

といった繋がりです。

この前提を念頭しつつ、

この世自体がどのようになっていくか分からない、

リスク

可能性

が高い(大きい・広い)ということを理解します。

つまりこの世がどうなっていくか、本当の所は分からないということです。

変化の揺れ幅がとても広いのです。

妙とは不可思議なり

という部分です。

有限の命を持つ私たちは、

命を相続しつつ、

この不可思議な世界に

一定期間、

生きていられるのです。

ではこの一定期間をどう生きるか?

これが蓮華の教えです。

蓮華は因果同時の例えです。

行いが即報いとして現れることを示します。

私が行ったこと、考えたことは

何らかの結果として現れてくるというのです。

だから

どちらに転ぶか分からないこの世を

少しでも良い方向に向かうようにと

自分のできる範囲で、

自分のいる環境に即して、

生きることになります。

まずは道に落ちているゴミを拾ってみるという事でいいのです。

一つや二つゴミを拾ったところで、街がきれいになどならないと考えるのではなく、

一つゴミを拾ったので、奇麗になったと思うのです。

道にごみを捨てないというのもいいことです。

それだけ町は奇麗でいられるのですから。

家族や友達にやさしくする、でもいいのです。

これらの行動は、即良い結果として現れてくるはずですから。

この世は妙です。

良くも悪くもなっていく

とても振れ幅の広い世界です。

限りなく悪くもなりますが、

反対に想像を絶するほど良くもなるのです。

この振れ幅を支えているのが

一時的にこの世に生を受けた私たち。

私たちの生き方なのです。

だから

できる範囲で、無理せずに

この世が良い方向に振れるように

生きていきますと仏様に誓うこと。

これが

南無妙法蓮華経のお題目

を唱える意義となるでしょうか。

繰り返し、繰り返し、

お題目を唱え、

心に体に

その意義を刻み込み、

自身の血肉とするためのご修行。

こうなります。

刻み込み、

何も考えずとも

自然に

このような生き方ができるようになるために!

・・・この境地に至るのは大変難しいですが、

ここを目指すのだと思って、

お題目を信仰していきたいと思っています。

どこまでも凡夫な私は、

・・・ついつい失念することも多くて困っていますが…。

ちょっと書いてみました。

有縁の方、ご参考くださいませ。

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