本来、当たり前のことが当たり前にできるようになりたいものです…。

「困った時の神頼み」という言葉があります。何かに困った時、悩んだときについ手を合わせて「神様、お願い!」ってお祈りしてしまう人も多いのではないでしょうか?…でもこのお祈りが自分の悩み・苦しみを解決してくれることはほとんどありません。そして「神様なんていないじゃないか」と宗教に対して否定的になっていきます。気持ちとしては分かります。辛い時、それも誰かに相談できない悩みを持った時。こんなときだけでしょう。神様にお願いしようと思うなんて。いうなれば緊急事態です。それで叶わないのだから、否定的にもなろうというものです。

しかしどうなのでしょう?神様って人の悩み・願望を叶えてくれる存在なのでしょうか?少なくとも私たち日本人が生きている社会で大きなウエイトを占める仏教においては「そうではない」と断言します。仏教とは、私たちが仏様になるための教えなのです。この悩み苦しんでいる私が仏様のようになるために説かれた教えなのです。私の悩み・苦しみを偉大な超能力を駆使して解決してくれる(叶えてくれる)ものではありません。

仏教ではこう説くのです。「あなたが苦しみ・悩んでいるのは、あなたに原因があるのです。その原因を取り除けば、あなたの悩み・苦しみは自然に解決します。その解決法は○○です。出来ることから、少しづつ、一歩一歩、実践していきましょう。」と。

この一歩一歩の実践を【修行】といいます。仏教は日々の絶え間ない修行を通して、自分を改良し、自分の抱える悩み・苦しみを別な角度からも観察できるようになり、解決策を自分で作り、解決していくのです。

さて、宗教を「救いの宗教」「悟りの宗教」と分けるときがあります。前者は絶対的な力を持つ存在に従うこと(信じること)でその力に与り救われるという宗教。一神教の多くはこういう性質を持っていると私は考えています。また仏教ではありますが、お念仏なども近い考えだと理解しています。「困った時の神頼み」という考えは宗教をこういう性質だと思っているから起きる考えでしょう。後者は、すぐ上で書いた仏教です。自分の中に原因を求め、それを改良することでより良い自分になっていこうというものです。ここには絶対的な宗教的権威の力は必要ありません。仏教に出てくる仏様・神様は自分を見つめ、悪いところ正す修行を日々行っている目標・憧れとすべき存在となります。これらの方々のように、これらの方々に少しでも近づけるようにと思わしてくれる存在なのです。奇跡のような力を持った存在ではありません。だから困ったからと頼んだところで、奇跡の力で困りごとを解決してくれることはありません。…残念ですが、これが現実だと私は考えています。

皆さんならば、救いの宗教と悟りの宗教、どっちがお好みでしょう?信教の自由が保障された現代社会です。これを決めるのは皆さん自身です。優劣をつけて提示するものではないと私は考えます。

ただ、皆さんの悩み・苦しみを解決するにはどのような方法をとるのがいいのかとご自分で考えてみてほしいのです。私たち人間は、自分の心の持ち方次第で自分の行動や自分の置かれている環境が良くも悪くもなるものです。「病は気から」という言葉も一つの真理だと私は考えています。心の持ち方を変えることで良い変化を得ていく。こういう方法もあるのです。この方法のデメリットはすぐに良い変化が現れないことでしょう。また変化していても緩やかな変化なので、自分でその変化を実感出来かもしれないことです。状況によっては実感を得るのに何年、何十年、もしかしたら一生をかける必要があるかもしれません。その間、実感できないからと辞めてしまってはいけないのです。もしかしたら…今までよりも苦しいかもしれませんね…。ただ日々修行を続けることで、実感は持てなくとも皆さんも皆さんの生きる環境も良い変化が起きていると仏教は太鼓判を押しています。

宗教・信仰の難しさ、取っ付きづらさはここなのだと私は考えています。普段の生活において、私たちはご飯を食べれば腹が膨れます。トイレに行けばすっきりします。疲れたとき一寝入りすれば疲れが取れます。何かやればやっただけの甲斐がすぐに実感できるものです。宗教・信仰にはこの即効性が皆無です…。

こうご念頭いただいた上で、仏教の修行って何なの?ということを最後に書きたいと思います。簡単に書くと「(人・モノ、自分自身・自分の周りに対して)誠実であれ」ということに尽きると私は考えています。そして…とても、…とっても難しいことだとも私は考えています。ただ、誠実であれとは本来、当たり前のことなのだとも私は思っています。皆さんもご自分が好感を懐いたモノ・人に対しては誠実に接することでしょう。この人・モノと一緒にいたい・いつまでも良好な関係でいたいと思えば、誠実にならざる得ませんから。私は前世とか死後の世界があるかどうかは分かりません。分からないから、この世に生を受けたという事実はとても重いと考えようとしています。自分ばかりでなく、この世に存在するものは全てそうだ、と。

だからこの誠実であれを好きなモノ・人だけでなく、少しずつその適用範囲を広げていく努力をしようという気持ちを持つのです。言い換えれば、誠実であろうとする気持ちを好きなものだけでなく、無関心なもの・苦手なもの・きらいなものへと範囲を広げていこうとするです。ただ、こんな難しいこと、行動にすぐ起こせるものではありません。まずは気持ちの上で。これだけで十分だと私は考えます。最初の内はおそらく行動とチグハグになるでしょうが、気持ちがあれば、その内、それが行動になっていくはず。周りにも伝わるはず。こう信じていればいいと私は考えます。仏教の本当の修行を行動に現わすのはとても難しいと知ったうえで、気持ちだけはそうありたいと思い続けていく努力をする。これが現実的に私が出来る仏教の修行なのだと思っています。坊主としては、なんとも情けないことですが、これが現実の自分だなと…。

いつの日か、全てに対して誠実であるという当たり前のことが、当たり前にできるようになれたらいいなと(この記事を書いている今の瞬間は)思っている次第です。

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